真田ゆかりの史跡

もうひとつの真田の舞台〜沼田〜

天正7年(1579年)北条家との同盟が破棄された頃、真田信繁(幸村)の父、真田昌幸は武田方の武将として、上野国(現在の群馬県)攻略を担っていました。「真田」といえば信州というイメージですが、天正10年頃には上野国(群馬県)北部(利根沼田・吾妻地区)のほとんどが真田の勢力下に置かれていました。

武田氏滅亡に伴い、沼田領を守るために真田家は織田信長に従属しますが、信長の死、豊臣秀吉の隆盛と衰退など、戦国の混乱の中で、真田一族はその存亡をかけて数々の戦略をめぐらせました。二男である信繁(幸村)は上杉家や豊臣家で人質としての生活を送ることになります。しかし、そこで出会った戦国時代を闊歩した数々の武将たちによって「日本一の兵」は育てられたのです。一方、真田家嫡男である信之は父・昌幸とともに領地を守るために奮闘します。初代沼田城主として、400年後の現在も残る町割りを施すなど城下町・沼田の整備を進め、関ヶ原では徳川方の武将として、父、弟と敵味方に分かれ戦うことになりました。

教科書に出てきたり、天下を狙うような有力な武将ではなかった真田一族ですが、今も多くの物語が残されています。わずか2万7千石であった沼田の地に、関東でも稀有な五層の天守を有した沼田城を「真田」がなぜ築城できたのか?
「もうひとつの真田の舞台〜沼田〜」をめぐる歴史ロマンがここにあります。

「真田電子博物館」


【真田丸・街あるきマップ】

★群馬版